飛騨高山は、岐阜県北部の山あいに位置する町で、「古い町並み」が残る観光地として知られています。
木造の商家が軒を連ね、用水路が流れる通りを歩いていると、どこか時間がゆっくり流れているように感じられます。
とはいえ、高山はテーマパークのように作られた場所ではありません。
あくまで「町として生きてきた結果、今も昔の姿が残っている」場所です。
朝市や酒蔵、昔ながらの商店など、観光向けの要素はありつつも、生活の延長線上に町並みがある点が、高山の大きな特徴です。
高山はいつ、どのように作られたのか
高山が町として整えられたのは、戦国時代から江戸時代初期にかけてのことです。
かつては小さな城があり、その周囲に城下町が形成されました。
ただし、この城は現在まで残っていません。
江戸時代に入ると、高山は幕府の直轄地、いわゆる「天領」となります。
これは、将軍が直接支配する地域という意味です。
山に囲まれた飛騨の地は、農地こそ少ないものの、木材などの資源が豊富でした。
その管理を幕府が直接行う価値があった、というわけです。
豆知識として面白いのは、高山が「辺境」であると同時に「重要地」でもあった点です。
遠いからこそ、直接支配される。
少し逆説的ですが、当時としては珍しいことではありませんでした。
栄えた時代と、城が消えた理由

高山が栄えたのは、城を中心とした軍事拠点としてではなく、商業と職人の町としてでした。
山の産物を加工し、流通させる中継地点としての役割が大きく、町人たちの力が強かったとされています。
一方で、高山城は江戸時代初期に取り壊されてしまいます。
これは「一国一城令」と呼ばれる政策によるものです。
簡単に言えば、城をたくさん持つと反乱の原因になるため、必要のない城は壊してしまおう、という考え方です。
城がなくなったあとも町は衰退せず、むしろ行政と商業の拠点として存続しました。
結果的に、高山は「城のない城下町」という、少し珍しい存在になっていきます。
周辺とのつながりと高山の立ち位置
飛騨高山は、決して孤立した町ではありませんでした。
険しい山道ではありますが、北陸や美濃、信州方面とつながる街道があり、物や情報が行き交っていました。
また、幕府の役人が常駐していたこともあり、政治的には意外と中央に近い存在でもありました。
山奥の地方都市でありながら、独自の文化と秩序が育った背景には、こうした立地と役割のバランスがあったと考えられます。
豆知識的に言えば、高山祭が非常に豪華なのも、町人文化が豊かだった証拠の一つです。
城主ではなく、町の人々が主役となる祭りが発展した点も、高山らしさと言えるでしょう。
なぜ高山の町並みは今も残ったのか

高山の町並みが今も残っている理由は、いくつか考えられます。
一つは、急激な近代化の波が比較的穏やかだったことです。
大都市のように大規模な再開発が進みにくく、昔の建物が「壊す理由のないもの」として残りやすかった面があります。
また、商家の町であったため、建物が実用的で、手入れされながら使い続けられてきた点も大きいでしょう。
観光のために保存されたというより、「使っていたら残っていた」という方が実態に近いかもしれません。
さらに、町そのものが完成されたサイズ感だったことも影響していそうです。
無理に拡張する必要がなく、結果として古い町並みと現代の生活が共存する形が続いてきた、と考えることもできます。
まとめ:高山が教えてくれること
飛騨高山は、派手な歴史的事件の舞台ではありません。
しかし、城がなくなっても町が続き、山奥でありながら文化が育ち、結果として町並みが残ったという点で、とても示唆に富んだ場所です。
「残そうとして残った」のではなく、「無理をしなかったから残った」。そんな言い方もできるかもしれません。
高山を歩くとき、ただ昔っぽい町だと見るのではなく、「なぜこうなったのか」を少しだけ考えてみると、景色の見え方が変わってくるはずです。